『貧困の精神病理 ペルー社会とマチスタ』『豊かさの精神病理』 大平健 著

『貧困の精神病理 ペルー社会とマチスタ』『豊かさの精神病理』大平 健 著 雑記

おひとり女子くるみです。

随分古い本ですが、大平健の『貧困の精神病理 ペルー社会とマチスタ』と『豊かさの精神病理』を読んで、とても興味深かったのでご紹介です。

 

大平健という魔法使いのような精神科医

 

そもそもは、『やさしさの精神病理』という本を読み、大変面白かったので、著者繋がりで『貧困の精神病理 ペルー社会とマチスタ』と『豊かさの精神病理』を読みました。

 

『やさしさの精神病理』も、どこかで紹介されていて興味を持ったのだと思いますが、きっかけは忘れてしまいました。タイトルと著者だけしかメモしないので、きっかけをいつも忘れちゃうんですよね。

 

Wikiによると、大平さんは米国ピッツバーグで育ったのだとか。『やさしさの精神病理』に英語が堪能であることを伺わせる一節があったのですが、なるほどネイティブなのですね。

 

おひとり女子は、面白い本に出会うと、同じ著者の別の本を読み進めることがよくあります。

プロ(精神科医)だから当然なのかも知れませんが、『やさしさの精神病理』で、大平さんはまるで魔法使いのように人間を意のままに操っていきます。

的確かつさりげない質問により「患者」の抱える問題を探り当て、「患者」自身がそこに気付くように誘導してしまうその様があまりにも見事で鮮やかで、上等の手品を見たときのようにポカンと口をあけている間に読み終わってしまうような不思議な感覚でした。

「この華麗なショーをもっと見たい!」という気持ちで、大平さんの他の著作を手に取りました。

 

『貧困の精神病理 ペルー社会とマチスタ』 1986年

 

時は1981年、日本は高度経済成長を経て安定成長期を迎えていた頃、大平さんは日本国政府の海外援助の一環として、ペルーへ1年間派遣されることになりました。

これは、その時の体験から得た考察をまとめた本になります。

 

大平さんは、外国人が住む高級住宅街を出発し、バスを乗り継いで首都リマの貧民街にある職場へと通います。家を出た時には目立っていた粗末な服装も、職場に到着する頃にはまわりと同化して違和感はなくなります。

そんな貧民街で、精神科医として多くの無産階級の人々と関わっていくことにより、人々の抱える問題が「生活の貧しさ」だけではなく絶望的なまでの「心の貧しさ」に根ざしていることを目の当たりにします。

 

「マチスモ」とは男性優位社会を前提とした「男らしさ」をあらわし、英雄視されるラテンアメリカの伝統的価値観です。「マチスモ」な男性を「マチスタ」といい、ペルーでもこの「マチスタ文化」が根強く人々の意識の根底に横たわってています。

 

では具体的に「マチスタ」とはどのような男性を指すのか。

 

貧民街の無産階級における「マチスタ」は、肉体的な強さ・男らしさがその象徴となります。身体つきががっしりしていて、時には暴力に訴えて力で相手をねじ伏せることも厭いません。その肉体を誇るがゆえに、それを産んだ母親は聖母として崇められる傾向にあります。

「マチスタ」自身も無産階級ゆえに非常に貧しい生活を余儀なくされていますが、その妻と子はさらに貧しい生活を強いられます。「マチスタ」は自らの男らしさや誇りを何より大切にするため、身なりを整え酒を飲み女を囲うといったことに優先して僅かなお金を使ってしまうため、妻子を養う生活費は削られてしまうのです。

夫から与えられる生活費では生きていけない妻は、子を養う為に自ら働きに出かけます。すると、「マチスタ」は妻子を養えない烙印を押されたことと同義のため、誇りを傷つけた妻を殴り飛ばします。

 

・・・え?

そんな馬鹿な。お前のせいだろ。なんだその理屈。

びっくりですが、この後も、なんとも救いのない生活実態が淡々と綴られていきます。

 

さてでは、この「マチスタ」はどのような成長過程の末にできあがるのか。

 

「マチスタ」の父は、これもまた「マチスタ」であることが少なくありません。

父である「マチスタ」は自らの誇り・男らしさを何より尊重して家庭を顧みません。つまり「マチスタ」は「父性性」を捨てて「男性性」を追及した姿です。よって、家庭は実質的には父不在に等しくなります。すると、その妻である母は、息子である将来の「マチスタ」少年を頼りにするようになります。息子が役割として父親の代わりを果たすようになるのです。

少年は幼少の頃から母に求められて「背伸び」をするようになり、父になろうとする。

しかし、父は「マチスタ」なので、父になろうとすることは「男性性」を追求して、「父性性」から遠ざかることを意味します。

こうしたジレンマから、「マチスタ」は生まれてくるのです。そして大人になり、妻子を養えず、妻が働かざるを得ない現実に、改善意欲も能力も無い無産階級の「マチスタ」は誇りを傷つけられ貧困感に苛まれます。

 

では一方で、無産階級より上流である中産下層はどうか。ここでも性質は多少変わるものの、やっぱり「マチスタ」が存在します。そして中産下層階級では、男らしさは肉体的な力から経済的な力へと変わっていきます。

無産階級のように妻を働かせなくてもよい経済力を得ていますが、いくら金を手にしても、男らしさを追求するあまり、常に貧困感を味わうことになります。何故なら、男らしさ=豊かさには限りがないからです。

また、まかり間違えば、すぐ目の前に広がる首都リマ貧困街に住む無産階級に転落しかねないという恐怖とも背中合わせです。

 

中産上層階級では、一見すると貧困感から開放されているように見えますが、愛情表現がモノやカネに限定されがちで、これも限度知らずの様相を呈します。

 

このように、いくら豊かになっても、形を変えてあらわれる貧困感の問題は、単純に経済学的にのみ決着のつけられる問題ではない、と大平さんはいいます。そして、最後に豊かになった日本人の心の問題にも少し触れてこの本は終わります。

この本では「マチスモ」に焦点があてられてはいますが、他にも「マチスモ」になれなかった男性、幼少の頃より母性性を求められて育った「聖母」、逆に女性性を追及した女性像と、典型的な人々を例に取り、病巣の根幹をあらわにしていきます。

どの階級であれ、程度の差はあれども、果てない飢餓感にあえいでいる姿が浮き彫りとなり、読んでいて苦しくなるくらいですが、様々なことを考えさせられる一冊です。

 

『豊かさの精神病理』 1990年

 

『貧困の精神病理』から時を経て、今度は舞台が日本に移ります。バブルが弾ける直前の、絶頂期です。

何もかもが右肩上がりで、それが永遠に続くと誰もが信じていた時代です。

 

さてそんな日本では、病気でもない<よろず相談>の<患者>が気軽に精神科の門戸を叩くケースが増えていました。そんな病気ではない<患者>の面談をしているうちに、一定の傾向があることに大平さんは気付きます。

その<患者>たちは、自分のことや周囲の「人」のことについては説明するのが苦手なのに、「モノ」に関しては驚くほど詳細に雄弁に、そして永遠に語り続けるのです。

愛は「モノ」であり、人を「モノ」として扱い、「モノ」で自らのランクアップをはかり、人付き合いは「モノ」を介して行う。

 

そうした<モノ語り>の人々との面談を通して、豊かになったはずの日本人に巣食うようになった心の貧しさを描き出していきます。

 

平成生まれの人がこの本を読んだ時に、登場人物たちの<モノ語り>をどのように受け止めるのか、ちょっとした興味があります。それほど、時代を感じる発言が次から次へと出てくるのです。

おひとり女子は、社会人になった時には既にバブルは弾けていましたが、あの毎日がお祭り騒ぎのような、今から考えてみれば異常なほどに浮かれきった雰囲気は学生時代にうっすら感じていました。

そんなおひとり女子からしてみれば、登場人物たちの発言やその感覚は、共感は無いにしても「あの時代ならばさもありなん」と受け止められるのですが、失われた20年といわれて久しい今の日本しか知らない人からみたら・・・宇宙人みたいに感じるんじゃないでしょうか。

でも、そういう人たちが確かに多数を占めていた時代だったのです。

 

本当の豊かさとは何か

 

大平さんがこれらの著作をした時代には、今のように「モノ」を捨て、「モノ」への執着を捨てて人生の幸せを追求するような考え方は一般的ではありませんでした。

しかし、今この時代にこれらの著作を読むと、「断捨離」だの「シンプルライフ」だの「ミニマリズム」だのが流行るのは、自然と流れ着いた当然の結果なのだなと思わざるを得ません。

 

モノを求め、豊かさを求め、幸せを求め、求めても求めても果てがない中でもまだ求めて、気が付けば経済は停滞し、豊かさを失いつつある現実に戸惑っていたら、津波が根こそぎ全てを奪っていき、そしてようやく目が覚めて、「モノ」の呪縛から解かれる人々があらわれはじめたのかな、と。

 

だとしたら、私たちは本当の「豊かさ」とは何かということに目を向けることのできる絶好のチャンスを手にしているのかもしれません。

 

なんてね。

うんざりするくらい暗いことばかり予測される日本の未来像に抗って、明るく希望にあふれる未来を思い描く今日この頃です。

人生、楽しんだもん勝ちですよね。

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